パーキンソン病① 他人も自宅で引き受けて
「お母さん」「お母さん」――。
三人の娘たちが、ほぼ寝たきりでベッドに横たわる佐藤ツヨさん(88)に交互に呼びかける。「あら、表情が出たわ。今日は調子が良いわね」と、傍らの河野都(みやこ)さん(74)と共に話が弾む。
東京都武蔵野市の河野さんの自宅でのことである。いずれも六十歳代の三人の娘は埼玉県や東京都国分寺市に住む。母親に会うために月に一、二回そろって河野さん宅を訪ねる。
ツヨさんはパーキンソン病を患って二十五年。一人暮らしの河野さんが、ツヨさんを預かり、共に暮らすようになって十年近い。こうした特異な関係ができたのは、同じパーキンソン病と「戦い」続けてきた河野さんの歴史があるからだ。
河野さんの夫、磐さんが手の震えや肩の張りを訴えたのは一九六五年ころ。三十五歳だった。整形外科で半年入院しながら検査を受けたが「病気ではない」と宣告される。
震える右手では字が思うように書けない。別の病院でパーキンソン病と告げられる。脳の手術を受けて一時は回復したが、半年後に再発。今度は、足が自由にならない。
「チョコチョコと駆けだして、バタンと倒れてしまう。家の中でも何回も転んでいました」と都さんは、当時を振り返る。病気の原因は脳の神経伝達物質、ドーパミンの減少による。手足が一定のリズムで震えたり、筋肉のこわばり、緩慢な動作など運動障害が起きる。歩き出すときに足が前に出にくく、反射神経の障害から転ぶことが多い。完全な治療法はなく、ドーパミンを補う投薬で一時的に症状を和らげる。
歩行と停止がままならない磐さんは、通勤が「戦争のようだった」(都さん)。わずか二百メートル先のバス停まで出るのに何十回も転んで血だらけになったことも。駅で歩きながら定期券が出せない。二つの動作が一度にできないからだ。
このため四十歳を過ぎた都さんが、夫の通勤のため車の免許を取得。送迎は五年近く続いた。
症状が進行する中、磐さんは患者会の結成に奔走、国に治療研究の整備を求める。七六年に特定疾患の指定を受け、投薬を含め治療が公費負担となる。患者会の努力だった。
河野夫妻は、その「全国パーキンソン病友の会」の事務局長や副会長として加わると共に、事務所を自宅の一室に置く。「電話相談や来訪者が相次ぎ、泊まる人もあり、てんやわんやの騒ぎが続いた」と、今も事務局長を続ける都さん。友の会は、その後ほぼ全都道府県に支部を広げ、入会者は七千五百人に達した。
磐さんが亡くなった数年後に、佐藤ツヨさんの三女(60)と次女(63)が都さんを訪ねてきた。「母親を安心して預けられるところはないか。私たち娘三人の家で十年近く見てきたがもう無理なので」
話を聞いた都さんは、ツヨさんが「転倒が多かった夫と同じ症状なので、私なら介護経験が役立つ」と自宅で引き受けることに。当初は食事を共にしたりと姉妹のような生活だったが、今では時折車イスに移るほかはベッドでの時間が長い。
都さんが事務局活動で日中の不在時には、介護保険のヘルパーが来て、食事や入浴、清拭(せいしき)などの介助をする。それ以外の、夜間や休日は都さんがほぼつきっきりだ。
母親のつややかな肌に安心した三人の訪問者は、都さんに改めて感謝の言葉が出る。「こんな奇特な人が世の中にいるのかと驚き、今は神様みたいに思っています」と、うなずきあっていた。(編集委員 浅川澄一)
2007.10.25日本経済新聞